妖精と人間のはざま

出演情報

こんにちは。

雨が続く京都です☔️

 

 

今日は夕方ひさしぶりに雨が上がったので、八坂の塔あたりをお散歩🚶‍♀️

 

ふと見上げると

空が焼けるようなすごい夕陽でした。

 

 

 

圧倒的な空を見ると、自分の命に感動する

 

 

 

朝日と夕陽を観る生活に憧れています。

 

でも朝起きられず、、、🙄

 

夢のまた夢です。

 

 

 

人にやさしくしたいと思うのに、なぜか出来ないときってありませんか?

そんなときに自分を責めてしまいがち。

なんでなんだろう、、、ってグルグルして

 

 

 

自分に余裕がなくていっぱいいっぱいの時に

プレッシャー過多で

そうなることが多いのかなと思います。

 

 

 

 

 

 

人間いろんな時がありますよね。

 

波が

 

凪のように穏やかなときもあり

 

嵐のようにどうにもできないイライラなときも

 

 

人間だもの

 

 

 

それがコントロールできるようになれたらもう人間卒業かも🧚‍♀️

 

 

 

🌊

 

 

 

 

今日、散歩の途中で見た寺の標語

「 怒り虚しさ悲しみを与えてくれた人へ 感謝の気持ちを持つ」

 

 

 

 

 

 

たしかに数年前のムカついたり悲しかった出来事は

それを味わわせてくれた人に

今では感謝できる。

 

 

 

でも、ナウな出来事にはなかなか冷静になれないんですよね

 

 

ほんとうは、あーこんな感情味わわせてくれてありがとう!

ってわかってるんだけど

 

なぜか素直になれない時があるんですよね。

 

その人と関係性が近すぎた時

またはその人に勝手に好意や期待を寄せている時は特に。

 

 

 

相手とのタイミングや波長がどうしても合わない時ってのもあるんだろうな☪️

 

 

または、女の子の日ホルモンバランスに揺さぶられて🚺

(これほんまにすごいなぁ。意志の強さではどうにもならないくらいの時あるもんな、大変。)

 

 

 

 

 

 

 

本当は誰も傷つけたくないのに

 

 

これが人間なんだなぁ

 

 

 

 

でもさ、人間卒業したい🧑

 

 

 

 

 

怒ったり、イライラしたり、喧嘩したりすることが無さそうと思われているみたい

 

そんなことないよ

 

おもてに、その怒りの感情をなかなか出せないだけ

 

怒れないことが弱点だと言われたこともある

 

 

 

前に比べると

抱えたモヤモヤを

しっかり面と向かって

相手に言葉として伝えられるようになってきたけれど、ね

 

 

 

 

妖精さんって言ってもらえるけど、

まだ妖精になりきれていないのです🧚‍♀️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

踊る人

今年は、自分というものを社会的な職業として見ることができた年だった。

 

今まで自分はフリーターなのか、アルバイトなのか、扶養なのか、プロのダンサーなのか、スポーツ選手なのか、教室を運営する自営業なのか

そんなこと興味もなく、生きてきた。

 

 

 

しかし、わたしはプロの踊る人だと近頃感じるようになりました。

 

 

頑なに、プロとはなんなのか自分の中で釈然とせず、

お金もらうからプロなのか?とか

お金もらってなくても真摯な気持ちでめっちゃくちゃ素晴らしい踊りをする人もいるのに

 

プロだから偉いんか?

踊る以外の収入源や仕事持ってたら、プロ失格なんか?

バカにされるのはなんでなん?

 

 

って思っていた。

 

 

 

ポールをし続けて10数年目

プロとしての自覚が強烈に自分の中に芽生えていることを知った。

 

 

わたしの中でのプロの定義は、

「そのショーに命をかけてやっているか」

 

だった。

 

 

ダンス生命

自分の人生

文字通り身体の命

 

全身全霊で、その仕事に打ち込んでいるか

 

だから、一緒に仕事をするひとの覚悟や気持ちが中途半端な場合

すぐわかる

そして、すごくやる気がなくなって悲しくなる。

 

 

職業柄、よく見下されたり軽く見られたりする。

 

でも、わたしはプロとして自分の命をかけて仕事に挑んでいる。

 

その舞台でたとえ高いところから落ちて死んでも最終良いと思っている。

それくらいの覚悟でやっています。

(もちろん絶対にそんなことにならないように最大限の対策をした上で。それも仕事のひとつです。たとえです。)

 

一緒に仕事ができるひとは、同じようにアツイ気持ちを胸に秘めて仕事に向き合っている方です。

技術の上手い下手は実はどうでも良いです。

そんなことより、ハートです。

 

相手への、仕事への、自分へのリスペクトがあるひとです。

 

 

あぁ こんなに私は自分の仕事に置いてこだわりというか信念があったんだなぁと今更気づいた次第です。

 

 

昔、ポールの先輩が「踊れるのは今日が最後だと思って踊っている」と仰った言葉が忘れられないんです。

 

真剣に踊りをしている人は、こころを打つ踊りをしている人は、きっと多かれ少なかれ心にあついものを秘めて踊っているのではないかと思います。

 

 

その熱量には、そのひとの人生と文字通り生命がかかっています。

 

 

ただやみくもにギャラが欲しいんじゃなくて

その生命がかかっている熱量の仕事に対して、もしタダでやってもらったら、依頼した人になにかバチのようなものが当たるのではないだろうか

 

地球の法則から考えても、

真剣な踊る人のそのあつすぎる想いの仕事は、

軽い気持ちで依頼してタダでやってもらった依頼人を押しつぶしてしまう気がするのです。

 

その人がその後あんまり良い人生にならない気がするというか。

 

 

踊りは祈りでもあり、呪いにもなりますからね。

 

 

だから、熱量に見合ったギャラをお賽銭というか払った方が流れがスムーズで、悪いものも滞らないと思います。

 

 

 

ま わたしの狂った頭の中のことです。

 

冗談半分で聞いてください。

 

 

もちろん、自分がこれは別にギャラ要らないって思う仕事もあります。

気持ちの問題です。

頭じゃなくて損得じゃなくて、ハートが動いたら別にギャラなんていらなくて、気持ちよくスムーズに仕事できます。

しかも楽しく。

 

 

 

 

そして、わたしは真剣に誠実に思いっきり良い仕事がしたいです。

わたしを観に来てくれるお客様、お金を払って観てくれるお客様のことを死ぬほど大切に思っています。

 

空遊体芸術

エリカのはポールダンスじゃない!
” 空遊体芸術 ” だ!

寝起き70歳後半の陶芸家さんからチャット
わたしの肩書について討論
1時間、、、

 

空中芸術
浮遊芸術
身体芸術

それらを合わせた

「 空遊体芸術家エリカリラックス 」になりました。

 

ポールダンサーエリカリラックス卒業。

宜しくお願いします🥺

 

 

 

  言葉の力        大岡 信

人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとは限らない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものだはなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。

京都の嵯峨に住む染織家志村ふくみさんの仕事場で話していたおり、志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。

「この色は何から取り出したんですか」
「桜からです」

と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすぐに桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮から取り出した色なのだった。あの黒っぽいごつごつした桜の皮からこの美しいピンクの色が取れるのだという。志村さんは続いてこう教えてくれた。この桜色は一年中どの季節でもとれるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、山の桜の皮をもらってきて染めると、こんな上気したような、えもいわれぬ色が取り出せるのだ、と。

私はその話を聞いて、体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。

考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の一刻も休むことのない活動の精髄が、春という時節に桜の花びらという一つの現象になるにすぎないのだった。しかしわれわれの限られた視野の中では、桜の花びらに現れ出たピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれると、はっと驚く。

このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという気がする。言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところぜんぜん別の色をしているが、しかし、本当は全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭におきながら、言葉というものを考える必要があるのではなかろうか。そういう態度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささやかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。美しい言葉、正しい言葉というものも、そのときはじめて私たちの身近なものになるだろう。

 

http://www.za.ztv.ne.jp/iguchi/monooki/kotobanotikara.html

 

雅文

あぁ そうか ただただわたしは美しいものが好きなのだ。

 

文明開化で皆が声高に叫び力強く歩む世界よりも、

怠惰で静謐な生に憧れる。

美しく装いは流麗で慈愛に満ち満ちた安らかな清らかな文化が。

 

無いのではなく、見えないだけなのだ。

見せ方に工夫を凝らしさえすれば、わたしの望む世界は容易に顕現するのだ。

 

 

#書楼弔堂

マイツリー🌳

砂漠に植林するプロジェクトに参加してみました。

 

実際には同行出来ないので、寄付という形にて🌳✨

 

 

植林地は内モンゴル自治区の、

「ウランブハ沙漠」です。

 

 

「スナナツメ」を植樹したそうです。

沙漠での成長に適していて、成長することで沙漠化の進行を止める「グリーンベルト」の役割を果たしてくれます。

スナナツメの写真は、少し萎びれて写っていますが、これは苗床から移動した後のためで、植樹後に安定していきますので数年後を楽しみにしていただけたら嬉しいです。(2009年に植樹したスナナツメの写真を添付いたします。)とのこと!

 

ERIKA RELAX の木

大きくなあれ🌳✨

#Friday for future

 

“大人たちは 口ばっかりで行動に移していない”

スウェーデンの女の子からはじまったスクールストライキ

 

それは 地球の環境を救うため🌏🌱✨

 

わたしも行動にうつしていこう🌱

 

この世界のムーブメントを知ったのは 日本で活動されている アースジプシーさんのブログから

 

👇

https://ameblo.jp/naho-earthgypsy/entry-12496506329.html

 

 

上記のブログより 一部抜粋させていただきます。

 

「 残念なことに日本ではほとんど報道されませんが・・

今世界では前代未聞の革命が起こっています。

 

スウェーデンを皮切りに、世界130カ国、

100万人以上が参加する大きなムーヴメントが起こっているんです。

 

 

しかも、中心のほとんどは小中高生の子ども・若者たち。

 

 

 

彼らは勇気を出し、学校をも休み、毎週金曜日に

これからの地球と私たちの未来のためにストライキを起こしています。

(「Friday For Future」で検索してみてください^^)

 

 

 

 

彼らの勢いはとどまることなく、

政府や国も無視できないところまできています。

 

 

 

世界の子供達は今、ひとつになりながら、

本当に新しい未来を選ぼうとしています。」

 

 

 

地球に愛を持って🌏❤️

想像😌創造

【 明日は選挙。

投票するときに大事なこと、それは戦いの意識を持たないこと。

なにかを負かしたり、引きずりおろすイメージをしないこと。

 

間違いを伝えたり、もっと良い方法を指し示すことは大切だけど、意識下で争ったらそれはもう平和ではありません。

 

それから恐怖からの選択をしないこと。

恐怖を持つと、人は自分の保身を1番に考えます。

平和は分かち合い、広がっていくもの。

恐怖は視野を狭くし、自分さえ助かればいいという意識を生みます。

 

 

心配するのをやめて、どんな世界に暮らしたいかを想像してください。

イメージしたものを、創造してください。

 

 

明日どのような結果になろうとも、あなたの心の中の世界はやがて現実化されます。

少し時間はかかるかもしれないけど、必ず。】

 

 

Instagram  @schole_kai  さんの投稿より抜粋 ( 一部割愛 )

 

 

 

終止符

なにかと自らお別れするとき、

 

自分で決めたことだし

次の世界に進むんだし

いままでたしかに毎週のようにあった世界に対して

そこまで感傷的な気持ちになることもないと

自分に気持ちに区切りをつけることができていた

 

 

 

しかしふと

そこで頂いたこのお茶の葉がなくなったら、

もうこのお茶は飲めなくなるんだ

 

 

 

 

その人たちに定期的に会わなくなる

ということよりも

 

 

そのお茶はたしかに無くなり

もう味わうことが無くなるのだということは

 

わたしを すこし狼狽させた🍵

 

 

 

たかがお茶

されど
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